レント(受難節)
たといわたしは雪で身を洗い、
灰汁で手を清めても、あなたはわたしをみぞ
の中に投げ込まれるので、わたしの着物も、
わたしをいとうようになる。
ヨブ記9章30,31節
3月6日から四旬節(レント)が始まっていますが、なじみのない人が多いのかもしれません。私自身クリスチャンになってからも四旬節の事は知らず、2010年のイースターの時に知ることになるのです。この年は信仰的にも仕事面でも大きな壁に直面した年で、とりわけ新年明けに当時恒例であった佐世保基地への出張時にそのピークを迎えました。自宅であれば家族がいますし、自分の部屋でゆっくり祈ることもできます。しかし出張先のホテルではそのような事はままならず、それどころか大きなイベントの準備で徹夜になることさえあるのです。出張の準備をしている時に私はとっさに”主の憐れみを叫び求めて”という邦題の本をスーツケースに忍ばせました。ヘンリ・ナウエンというハーバード大学教授の書いた著書です。副題として”ジェネシー修道院からの祈り”と記されたその本には、著者が知的障害者と24時間、何か月も生活を共にした時の日々の祈りが日記の形で記されていました。肩書も何も通用しない世界で著者は自分の無力さを思い知らされるのです。
本を開いた時、私の目に最初に飛び込んできたのは”恐れの心”という第一章の表題でした。まさにその時の自分が直面していた問題です。私は毎日時間を見つけては食い入るように読み続けました。私自身も著者と同じように四旬節に合わせて祈り心を持って読み続けたのです。もちろん、それで問題は解決しません。しかし、不思議な平安が私の心を満たしてくれました。ちょうど真っ暗闇の中に仄かに光る燈心の火のように…
神の国Ⅱ
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
庭にある花桃の木に、毎日メジロが番いでやって来ます。自分の部屋の窓から良く見えるので、ついついその行動に目が奪われてしまいます。たしかに彼らは“まくことも、 刈ることも”しません。しかし、厳格な自然界の掟に従って一生懸命に生きているのです。
彼らの行動があまりにも可愛いので、ついついかまってあげたくなり、少し古くなったリンゴを細かく切ってちいさな籠にいれて木の枝にぶら下げておくと、そのエサをめぐり繰り広げられている熾烈な弱肉強食の世界を目の当たりにします。
メジロたちが一心不乱にエサをついばんでいると、突然食べることをやめ、あたりをキョロキョロと見回したかと思うと、勢いよく飛び立って行くことがあります。よくよく観察してみると、高い木の上にメジロの10倍はあろうかというムクドリがいたのです。彼らもこのエサを狙って毎日やってきます。しかし、最近増え続けているカラスに追い掛け回されているのです。
次々と変異するコロナウィルスに翻弄されて先の見えない不安に怯える生活がもう二年以上も続いています。しかし、メジロたちを養って下さるお方は、それ以上に私達のことを心配し、守って下さるのです。このようなお方に全て委ねて生きていきましょう 。
ルカによる福音書20章20節~21節
神の国
昨晩から何度もけたたましく鳴り響く津波警報アラームのせいで、
いつもよりも早く目が覚めた私は、床を出て書斎に籠り窓の外を眺めていると、
漆黒の闇に包まれた暗闇の世界が目の前に広がっていることに気が付いた。
普段あまり見る事のない光景にやや戸惑いを感じていたが、
次第に目が暗闇に慣れてくると近隣の家の輪郭がぼやけて見えてくるのがわかる。
ふっと聖書の言葉が心に浮かんできた。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。
神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
ルカによる福音書20章20節~21節
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。
この美しい文章は、旧約聖書の詩篇42篇に収められています。私が聖書を初めて読んだ頃、新約聖書と詩篇だけを印刷した薄い単行本2冊を鞄の中に入れていつも持ち歩いていました。そんな詩篇の中でもこの42篇は一番のお気に入りで、心が疲れた時、余裕のない時、心に平安が欲しい時…よくこの箇所を読み、黙想しました。
大学4年生の時に“ディアハンター”という映画を観て大きな衝撃を受けました。ベトナム戦争を題材に制作されたもので、戦争下に引き起こされる狂気の沙汰に“普通の若者”が巻き込まれていく情景が描かれた作品でした。そこで主人公マイケルたちが鹿狩りに出かけるシーンがあります。仕留めた鹿の角を車の前につけ意気揚々と帰宅し、彼らにとって最後となるパーティーの場で談笑するマイケル達の姿が映しだされフェードアウトされていきます。
映画のシーンがベトコン(ゲリラ兵)の捕虜収容所に一変します。そこではベトコンが捕虜たちにロシアンルーレットを強要して賭けをする狂気の沙汰が描かれます。人間の命を賭けの対象にして弄ぶ。しかも賭けに負けた捕虜の死体がゴミのように川に捨てられるのを見て歓喜の声をあげて喜ぶベトコンの姿を描写したシーンは、あまりにも衝撃的でした。
映画の終盤、マイケルは単身ベトナムへ向かいます。捕虜収容所に捕らわれたままの友人ニックを救う為です。紆余曲折を経て彼のところに辿り着くのですが、そこで目にしたのは今でもロシアンルーレットを行っているニックの姿でした。マイケルは最終手段として賭けの相手に志願します。銃口を頭に突け、ニックの顔の目前で説得します。次の瞬間引き金が引かれ六弾倉の一つにだけ込められた銃弾がニックの頭を打ち抜き血潮が飛び散ります。
葬儀から帰ったマイケルたちの取り留めのない会話の情景が最後のシーンに映し出されます。一瞬の静寂が訪れ、沈黙の時間が流れた後、不意に一人がGod Bless Americaを歌い始めます。やがてそれは静かな合唱となりエンドロールが流れ映画は終わります。
マイケルと神様、ニックの顳顬(こめかみ)から溢れ流れる血潮とイエス様がリンクされて映ります。
自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
昨年は年明け早々一隻の豪華客船の中で発生した、 コロナウィルスとの闘いに人類が明け暮れた一年でした。 そして新年を迎えた今でも、収束の兆しが見えるどころか、 その脅威はさらに増し加わっています。
神のかたちに似せて創造された人類の進化はとどまるところを知らず、 私たちの生活は驚くほど便利になりました。 しかしその反面、人間が持っている唯一の特権である” 信仰心” が奪われました。
人間は何でもできる” 知恵” と引き換えに” 信仰” を失ってしまったのです。
2020年は” スローライフ” という言葉がよく取り上げられた年でもありました。 あえて不便な生活を選んだ人達の生活を記録した番組が多くの反響を呼びました。 また、大自然の圧倒的な力の前に人類がいかに無力であるも思い知らされました。
2021年は、目に見えない敵との闘いに不安を抱え迎えながらの出発となりました。 しかし、そんな私たちに対して神様が語りかけてくれている箇所が聖書の中にあります。
自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
(ペテロの第一の手紙5章7節)
憐れみ深い神様
今日の聖書の言葉はマルコによる福音書の中に記されています。重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来て、“ひざまずいて”この病気を治して欲しいと願い出ている場面です。同じ内容についてマタイ、ルカも記していますが、マルコだけが“深くあわれみ”という表現を入れているのです。
おそらくご存じだとは思いますが、福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の弟子たちが記しています。最初に聖書を読んだ頃、私は一人の作者で十分ではないかと疑問を持っていました。しかし、4人の福音記者を神様が選び、それらが聖書に取り上げられることは、神様のご計画だったのです。
最近、私は4人の弟子たちによって福音書が記された事をとても喜んでいます。なぜならその事によってイエス様の色々な面が見えてくるからです。
神のひとり子であるイエス・キリストは深いあわれみの心を持って私たちの弱さに寄り添って下さるお方なのです。
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。マルコによる福音書1章41節
朝明けの祈り
イエス様がよく夜明け前に祈られた事が聖書には記されています。これまでこの事を深く考えることはありませんでした。ところが今朝、その意味を示されたような気がします。それは、この時間帯が圧倒的に祈りに集中できるという事です。イエス様はわたしたちと同じ肉体を持ってこの地上で過ごされました。つまり、肉体を持つことで生じてくる弱さを知っておられ、ペテロたちがゲッセマネで眠ってしまった時にも、「心は熱しているが、肉体が弱い」と憐みをかけて下さったのです。神様は私たちの弱さを憐れんで下さり、そのひとり子を先駆けとしてこの世に遣わされました。聖書はその歩みを記してくれています。それは、期末テストの解答を記した答案をそっと私たちの机の中に忍び込ませてくれたようなものです。しかしその答案を手に取り、その解答を理解して、自分の解答用紙に記入するかどうか…それは、私達が決めることなのです。
さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しい所に出かけていき、そこで祈っておられた。マルコによる福音書1章35節
美しの門
皆さんは“美しの門”と聞いた時にどのようなイメージを抱かれますか?私は、針葉樹に囲まれた小さな湖の傍らに立つ洋館。その入り口に建てられた麗しい門を想い浮かべます。ところが聖書の中に出てくる“美しの門”とは私の幻想を粉々に打ち砕くものでした。その門の傍わらには生まれつき足の悪い人がいつも横たわっていました。施しを受けるためです。しかも自力でそこに来ることができないために、誰かに運んでもらってそこまで来ていたのです。ある日、その門を二人の男が通り抜けようとしました。足の悪い男の人はいつものように声をかけ、施しを求めます。すると意外な返事が男から返ってきたのです。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」すると生まれて一度も自分の足で歩いたことのなかったその人が自力で歩き出したのです。この奇跡を行った男とはペテロでした。そう、イエスを3度知らないと否定したあのペテロです。なぜ臆病だったペテロがこんなに変わったのでしょう?それは、聖霊が彼に臨んだからです。このあと最初の教会が建てられ、キリスト教は世界中に広まることになったのです。教会ではこの日を聖霊降臨日(ペンテコステ)として、また教会の誕生日として覚えます。今年のペンテコステは5月31日です。
さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上がろうとしていると、生まれながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。(使徒行伝3章1、2節)
旅人をもてなしなさい
以前、日本にはじめて来るというアメリカ人をもてなした事があった。成田空港からホテルまでの行き方、ホテルから職場までの地図を作るなど…正直な話、忙しい仕事の時間を割いてこれらの作業をすることはかなりの負担であった。けれども、30代初めの頃に出張のため生まれてはじめてアメリカに行った時、ビルという黒人男性が何から何までお世話をしてくれた事を思い出した。拙い自分の英語を必死に聞き取ってくれて、生まれて初めての海外出張が成功したのは彼のおかげだ。数年前、そのビルが亡くなった事を聞いた。出張期間中の短い交わりだったけれども、自分の身内が亡くなったような衝撃を覚えた。ビルが自分にしてくれた事を今度は自分がやろう。イエス様が私のこころの中に入ってくださり、このように語りかけたくれたのだった。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、」病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」。(マタイによる福音書25章35、36節)
みどりの牧場
ゴールデンウィークとは無縁の職場で働くようになってから長い月日が流れ、いつのまにか全く意識になかったのですが、先日カレンダーを見てビックリ!何と5月4日がみどりの日になっているではないですか!この“みどり”という言葉の響きは私に不思議な平安をあたえてくれます。きっと私の大好きな詩篇23篇と重なるからだと思います。皆さんも日常の忙しさの中にあっても、この詩篇を心の中に忍ばせておくと、きっと安らぎが得られると思いますよ:
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(詩篇23篇)
祈りと願いを捧げる
最近、自分の身体的能力の衰えを感じる。健康診断の結果を見ても実年齢よりも若いという結果は出ているものの、物忘れが多くなった事に関しては本当に困っている。なぜなら、自分だけの問題に留まらず、他人にも迷惑をかけてしまうからだ。けれども、いつまで悩んでいても何の解決にもならない。聖書を開いてみると、まるで今の自分に書かれたような内容の手紙をパウロが二つの教会にしたためている。ピリピとテサロニケの教会への手紙だ。今回、ピリピ人への手紙を取り上げたので読んでいただきたい。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(ピリピ人への手紙4章6節)
ゲッセマネの祈り
明け方に目が覚めた。「祈りなさい」神様にそう言われているのだと思い祈ると、十字架に向かうまでのイエス様のことが示された。実際にお亡くなりになられるまでの時間を一体どのような気持ちで過ごされたのだろう?その時に示されたのは、イエス様も「恐怖」「孤独」「絶望」これら私たちが抱くのと同じ感情と日々格闘していたのだということだ。そしてその根拠となる聖書の箇所が示され、こう尋ねられた。「あなたは血の汗を流すほどに祈ったことがありますか?」
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。(ルカによる福音書22章42節から44節)2020.4.30
イースター蜂起
4月24日はイースター蜂起と呼ばれる事件が1916年にアイルランドで起きた日です。ラグビーワールドカップ日本大会で一躍有名になったアイルランドですが、当時はイギリスの支配下にあり、独立を目指して起きたクーデターでした。結果的には失敗に終わってしまい、首謀者たちは全員処刑されてしまいました。この事件がクリスチャン国家であるイギリス、アイルランドの間で起きた事はとても悲しい事実です。しかし、この年のイースターが4月23日で、クーデターを決行した日が次の日の月曜日4月24日であるというところに、かすかな希望の光が差しているように思えます。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、 命の光をもつであろう」(ヨハネによる福音書8章12節2020.4.24
本を贈りあう
4月23日は聖人サン・ジョルディの命日です。ジョルディの出身地スペインのカタルーニャ地方では、この日を本を贈りあう日として親しまれています。日本ではあまり知られていないようですが、皆さんもこの日を記念して、世界一のベストセラーである聖書を読んでみませんか?
主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。(詩篇111篇11節) 2020.4.23